たまちゃんと俺は全くひょんなことで出会ったにもかかわらず、あたかも『曖昧な境界』プロジェクトのために出会ったかのように、なんのハードルもなく、一緒にプロジェクトを行うことになったのでした。とはいえ、最初の段階では、俺は単に名前を貸す程度の関わりと考えていました。もちろん、公認心理師として名前を貸すわけですから、それなりの責任を担うことは覚悟していましたが、たまちゃんという人は、すごく素直で裏表のなさが普段の会話からも伝わってくるので、腹の探り合いをする必要がなくて、俺としては非常に楽なのです。あまりに楽なので、つい、深く考えることなしに、あっという間にたまちゃん側の懐に立って、あたかも家族とか兄のような気持になってしまいました。ひょっとするとこれはADHDの特性かも知れません。ADHDの良い面ですね。よい面があるならば悪い面もあるのですが、それを取りざたしてどうなるでしょうか。問題があれば都度解決していけばいいわけです。
さて、たまちゃんが提案したカフェの名前はひどいものでした。横文字だったのですが、実は俺は英語には自信があるのですが、あまり聞いたことがない辞書単語だったので、見たとたんにボツと言いました。それから、これはどういう意味かと尋ねたら、はっきりとした境界のない世界と説明してくれました。「じゃあ、それにしよう!日本語で境界って俺は好きだな」と答えました。これが『曖昧な境界』の誕生です。
実は俺は現在慶應義塾大学で社会(心理)学の勉強をしているのですが、宗教学、民族学、文化人類学などで語られる『境界』にめっちゃ興味があるのです。『境界』とは変化を生むダイナミックな場所なので平常とは異なったリスクを伴うために「ケガレ」と呼ばれています。語幹から不浄と思われていますが、実は違うのです。非日常でダイナミクスなリスクがあるから安易に近寄らないで注意しなさいという意味合いで「ケガレ」と呼ばれるようになりました。昼と夜の境界をたそがれと言いますが、またの名を逢魔が時と呼ぶようなものです。そう、たそがれ時は「ケガレ」です。不浄ではありませんよね。
なぜ、その話をしたかというと、ダイバーシティ(多様性)を語るときに、どうしてもこの「ケガレ」の領域を通過しなくてはいけないのです。境界を曖昧にするということは、このケガレの領域をなくすことです。この言葉がたまちゃんから出てきたときに、俺は一歩迷宮に入り込みました。
「お、おもしれえかも・・・」と、本気で感じた最初の瞬間でした。
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