2011年3月11日。当時サラリーマンだった俺は、六本木のオフィスで出版社の方と打ち合わせ中でした。
揺れ始めた時は、震度2~3くらい。たいていの場合、「まあ、すぐに収まるだろう」という正常バイアスが働きますから普通にしていましたが、地震は止まることがなく、約1分半後、もの凄い揺れが襲い、ものが落下したり机が大きく動いたりしました。
俺はすぐに会社のドアを開けて、閉まらないようにドアの前に座りましたが、後ろのエレベーターの箱がガンガン音を立てて、目の前には非常階段があり、生きた心地がしませんでした。
東京では何度も地震を体験していますが、初めて恐怖を感じました。
東北地方での甚大な被害に比べると、東京は被災地と呼ぶにはおこがましいですが、そんな激しい揺れが2分は続いたように感じます。揺れ始めて収まるまでに6分のすさまじい地震でした。
収まると同時に、俺は先ず実家の母に電話しました。直後は携帯は通じました。
「あら、どうしたの?」
「今、すさまじい地震があった。半端じゃなかったから酷いことになると思うけど、俺は大丈夫だから、心配しないように!」
それだけ言って電話を切ると、次に俺の伴侶、親友1、親友2と次々に電話しました。伴侶とは職場が近いので、六本木ヒルズのスタバ前で待ち合わせ、親友は無事と確認できるとすぐに電話を切りました。
それから、会社の人全員に、大事な人に電話をして安否を確認するように告げました。出版社の方にも電話をするように言いました。
それがよかったのです。まもなく電話が通じなくなったからです。
後日、親から、「あなたのあの電話、初めは意味不明だったけど、その後、何日も電話が通じなくて、本当に助かったわ。あれがなかったら、心配でおかしくなってたと思うわよ」と、何度も言われました。
やがて余震が来ましたが、それがまた凄かった。もう、仕事どころではありません。
金曜日だったのと、その週末の日曜日に名古屋へ出張だったので、1時間で仕事を片付けると、待ち合わせ場所に向かいました。4時を過ぎていたと思います。
さて、六本木ヒルズから、自宅のある品川区までは、一ノ橋(麻布十番)まで出ると、もう6車線の幹線道路(途中から桜田通り、国道1号線になる)の1本道で、普通に歩くと自宅までは40分です。
ヒルズのスタバを出たのは4時30分、道路は車と人で埋め尽くされて、週末の渋谷や新宿のように、ぞろぞろぞろぞろ、全然前に進みません。
普通なら五反田まで30分で歩ける距離が、なんと3時間もかかりました。
こんな光景は初めてです。桜田通り添いには、ところどころブロック塀が崩れていましたが、危険な場所はありませんでした。
その間、一度だけ携帯が通じましたから、気になっている友人に電話を掛けました。
やっとの思いで五反田についた俺達は「もう、無理。何か食おう!」と話しましたが、あの混乱の中、一体、何処で何が食べれるのかというものです。
その頃には、被害の状況がすさまじいことになっていることがまだ混乱していました。気まぐれに時々つながる携帯の電波で入ってくる状況は、凄いものがありましたが、本当の被害状況を知るのはもう少し後のことでした。
五反田をゾンビの行列のようにだらだら歩いていて、なにげなくふと上を見上げると、2階にあるとんかつ屋の外階段に数人の人がいることに気づきました。
まさか、営業しているのかな?と思い、階段を上がってみると、なんと、営業しているではないですか!満席でしたが、女将が外に出てきてくれて、もう売り切れのものがあるけれど、大丈夫、食べれるわよと言ってくれました。
後から伺った話ですが、まさかあのような惨事になっているとは、最初はご存じなくて、地震が収まった後、電車が止まって従業員が帰れなくなったので、どうしようと思っている最中、どんどんと人が「何か食わせて欲しい・・・」と入ってきたので、食事を提供しているうちに凄いことになったそうです。
お客さんから状況が段々と分かってきて、外の渋滞も人の波もすさまじいことになったので、来て下さる方を断ることができなくなってしまったそうです。
それにしては、とても優しく迎えて下さった。女将は普段からとても覇気があってテキパキとなさっている方ですが、あの尋常じゃない地震と、3時間もの、のろのろ歩きで、疲れ切っていた俺だけじゃない全員が、女将の笑顔に、どれだけほっとしたことか!
あの日に食べたとんかつは、心から美味しかった。こんな時に営業してて、皆さん、ご自宅やご家族の方が心配だろうにと思いながら、有り難くいただきました。
その日は、素材がすべてなくなるまで、深夜まで営業なさったそうです。
その後も何度も再訪しているのですが、つい最近まで、その日のことを言わずにいました。
今回、ブログを書いていいかどうかお伺いした時に、初めて、「あの日はありがとう」と言いました。
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大変だったでしょう?と聞きましたら、お客さんも大変でしたからね。そう言ってくれる人がいて、やってよかったわとのこと。当然、ご商売でしょうけれど、心意気がいいですね!これからも贔屓にしようと思ったことでしたよ。
さて、お腹が満たされると、人間やはり元気が出ます。ようやく帰宅したら9時半でした。途中とんかつ屋に寄ったとはいえ、40分のところが、5時間かかりました。
あーあ、家の中はめちゃくちゃ。東側においてあった2竿の箪笥の引き出しが全部飛び出ていて、服は散乱、天井に突っ張り棒で支えていた本棚も45度に傾いて、何もかもが床に散乱。ところが西側においてあった、俺の大切な食器類を入れた引き出しは、動いてもいない・・・。同じ家の中でもこのようにダメージに差があるので、不運だった家や、ダメージが少なかった家があるのは当然だったことでしょう。
ようやく部屋を片付けて、TVをつけて、それからは深夜まで、TVに釘付けで、言葉が出てきませんでした。5時間歩いたことなんて、問題になりません。その後、日を追うごとにさらに深刻な被害が生じ、東京ではみるみる店から商品が無くなり、人生の価値観が変わりました。
これは俺だけではないでしょうから、深くは言及しませんが、その日から、伴侶(結婚していない)と同居することに決めました。そして翌年の4月に、20年働いた商社を退職しました。
何故なら、震災の2日後、3月13日(日)の名古屋出張に行かされたからです。
新幹線も満足に動いていない。被害状況はどんどん酷くなる。電話もまだ満足に復旧していない。そんな中、社長から、何一つ俺のプライベートの安否を聞かれることもなく、新幹線が動いているなら行ってくれといわれたので、「はい」とひとこと言ってすぐに電話を切りました。
当時営業本部長でしたから、業務上の責任感は人一倍あり、次期社長と言われていましたが、これが、退社する心を決めた最初の瞬間です。
本当に守らなくてはいけないものは、社会的地位でも会社でもないと、自分の中での価値観が180度変換しました。
守るべきものは先ず自分と、そして自分が愛する人です。それから、困っているいる人を助けたいとも思いました。
あの日、会社の利益が優先される場面では、絶対になかったはずです。
現に、取引先から、なぜ来たのか?大丈夫なのか?と言われたほどです。やるべき業務はやりましたが、当然中止と思われていたので、相手にとっても却って迷惑で、何しに行ったのか分かりませんでした。翌日月曜日は部下の安全もあるので、会社を休みにしました。
以来、尊敬していた社長・専務を軽蔑するようになりました。その後、何かにつけて俺のためと言われる度に、お前らの保身と私服のためじゃねーかとしか思えなくなりました。
そこには、ご商売とはいえ、あの状況で笑顔で接客なさっていた、とんかつ 五反田井泉の女将の姿もありました。あの夜、他でも同様なストーリはあったと思いますが、売上の計算の前に、ご家業への純粋な思いと、飯屋としての使命が優先されて、さらにはプライドがあったと思います。
ということで、色んな意味で俺のその後の生き方を変えてくれた出来事でした。
最後に、ここはとんかつ屋ですが、『トンから定食』なるものがあって、これは豚のから揚げ定食なのですが、これが大好き!めちゃ美味しいのです。
五反田にお出での際は、是非一度、ご賞味下さいませ!
■名 称 | とんかつ 五反田 井泉 |
■所在地 | 〒141-0031 東京都品川区西五反田1-17-6 トミエビル2F |
■電話番号 | 03-3495-0117 |
■営業時間 | 11:30~21:00(ラストオーダー20:30) |
■定休日 | 日曜日(祭日は不定休) |
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